5月活動報告


体験談:余命3ヶ月の悪性リンパ腫の克服

 11年前に悪性リンパ腫を発病し,余命3ヶ月と宣告されたけれど,その後の厳しい闘病生活を送りながら,がんに打ち勝った体験を山田さんが語ってくれました。

 その概要を以下に記しておきます。

 

 平成18年1月の初旬に奥様から「もう3年も人間ドックを受けていないので,行ってみてはどうか」と言われ,奈良県健康づくりセンターを受診した。
検査の結果,「肝臓,脾臓が大きなダメージを受けているので,すぐに大きな病院を受診してください」と言われ,「まさか」と思った。3日後に掛かりつけの診療所へ行き,検査の結果を説明したら,先生は非常に驚かれ,すぐに地元の奈良県立M病院へ連絡してくれた。そして5日間の検査と4日間の検査入院の結果,「病名は悪性リンパ腫です」と言われ,まさに「青天のへきれき」,頭が真っ白になり,頭をガーンとたたかれたような気持ちで,大きなショックを受けた。そこの病院では,もう治療ができないということで奈良県立医大へ変わることになった。
 地元の議会で議長をしていたことや小さな会社も経営していたので,奥様を通して自分の病状を聞いたら余命2~3ヶ月とのことだった。しかし奥様が調べた結果,成人病センターが良いということになり,長年親交のあったある方を通じて,成人病センターのセカンドオピニオンを受け,2月23日にようやく入院することができた。
 成人病センターでは,血液内科の副部長を中心に医師3人のチームで治療してもらった。主治医の説明では「新薬は色々あるが,山田さんの病気は特異な上,新薬の効果の実績がないので,混合して使ってみます」ということでした。3月3日に抗がん剤の点滴のために無菌室へ移ったので,議会は欠席した。3月12日には白血球が500まで下がり,血小板も低下し,急きょ血小板の輸血を行い,3月13日には白血球が400まで下がったため,白血球の点滴を行った。

 こうして抗がん剤による副作用が現れたため,5月の臨時議会で議長を退任した。奥様は本人に「余命2~3ヶ月」と告げることができず,「6ヶ月」と伝えていたそうです。それで6ヶ月を頭に刻み,1日1日をカレンダーに○をつけながら治療を続けた。8回目の抗がん治療を行い,10月に晴れて退院することができた。退院後は,遠方の親族へお礼に行ったり,ゴルフを楽しんだりして,まさにハッピーな気持ちで新年を迎えることが出来た。
 ところが,3月に精密検査を受けた結果,背骨において再発していることが分かり,すぐに入院をすることになり,再び谷底へ突き落された。主治医に4月の選挙が控えていることを告げると「命とどちらが大事か」と言われ,選挙への出馬は断念した。まさに断腸の思いだった。
その後入退院する中で,奥様から家族旅行の提案があり,急きょ娘の家族も一緒に勝浦,白浜と回ったが,それは「これが最後の家族旅行になる」という奥様の覚悟によるものだったという。
 3月・4月は抗がん剤治療と白血球の点滴を繰り返しながら,5月9日に一時退院した。しかし再発の恐れがあるということで,副作用や感染症のリスクもあるが,治療法を自家移植(自己細胞移植療法)に変更してはどうかという主治医からの提案があった。家内はもちろん,娘,息子も反対した。
 しかし余命宣告を受けながら折角命拾いしたので,「できる治療は何でもしたい」と家族と何度も話し合い,最後に息子が「親父がそこまで言うのなら,もし治療をせずこのまま死んでしまったら,逆に皆後悔するのではないか」と言い,家内も娘も納得して,その治療を受けることにした。
治療が始まると,激しい副作用が現れ,白血球が400,好中球が10%以下となり,感染症を発症し,血小板の輸血,白血球の点滴等これまでの入院で最も厳しい状態を経験した。そして,肺炎と胸膜炎を併発し39度の高熱や心不全も起こし,手足は膠着し,その上,幻覚症状が出て,急きょ精神科の先生も駆けつけて来られる他,更には呼吸障害を起こしたりして,これで自分の人生は終わりかと思った。「僕は大きくなったらお医者さんになっておじいちゃんの病気を治すね」と言っていた孫の写真を眺めながら泣いたことは,10年たった今日でもその情景は鮮明に覚えている。その時の担当の看護師さんの行き届いた細やかな対応には大変救われた。
 右腕から血液を抜き取り,遠心分離機を通して白血球だけを取り出し残った血液は左腕から体内へ戻す方法により,体調も安定し,8月9日に一時退院した。ところが, 9月に入って胸膜炎を起こし,白血球が800まで下がっているということで,ヘモグロビン輸血,4種類の薬や白血球の点滴を行い, 10月20日に一時退院できた。11月に自家移植治療は全て終了し,12月下旬に晴れて退院することができた。その間中国に出張されていた若い先生は,帰国後「山田さんの病気は気持ち,すなわち,夢と希望そして,大きな目標を持って戦う気力が大事です。私達医者が50%,山田さんの気持ちが50%です。」と何度も話をされた。
 余命宣告を受け死線をさまよい,三途の川を渡らず,生き返った体験を病に苦しんでいる人たちの勇気付けになればと言われ,平成23年の統一地方選挙に出馬を決断した。今でも私の名刺の裏には「余命6ヶ月宣告,議員復帰」と印刷してある。

 

 最後に山田さんは,「そのような気持ちで,この『1・3・5の会』で今日ここに 立たせて頂いております。」と締めくくられました。余命宣告を受けた人の闘病記であり,多くの人に感動を与える講演でした。また主治医に内緒でサプリメントを飲んだ話など,余談も含めた参考になる貴重なお話が聴けました。

 

 

交流会:治療法別の交流

 新がんセンター(大阪国際がんセンター)での開催は初めてでした。

 会員の体験談を聴いたあと,質疑応答を行いました。参加者からは感動したという多くの声が聞かれました。

 体験談の後は,いつものように参加者25名が「手術グループ」「抗がん剤グループ」「放射線グループ」「女性グループ」に分かれて,当事者同士で熱心に情報交換が行われました。

 これがピアサポート(「ピア」とは仲間のこと。当事者同士で助け合うこと)の場です。他の人の体験情報を聞きたい人と,自分の体験を後続の同病者に伝えたいと思っている人が出会う場です。今回は「手術グループ」が盛り上がっていました。

「女性グループ」も熱心な情報交換が行われていました。